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SPECIAL INTERVIEW

INTERVIEW 001 / 003

佐々木敦規という生き方
asked to ATSUNORI SASAKI.
心が折れかけたAD、
あの秋元康氏と出会う!

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#001
なぜADに
なったのか?

 僕は、高校時代はバンドに専念をしていて、何かしら作りたいという欲求は、その頃から少なからずあったんです。大学では中央大学商学部経営学科に入学。当時は1980年代中頃で、その時代と言えば、テレビでとんねるずさんやおニャン子クラブさんとかが映っていて、フジテレビを中心としたバラエティー現象が盛んでした。
 僕もそこから多大な影響を受けて、新しいモノを作ったり、伝えたりするマスコミ業界に興味を持ったのが始まりでしたね。

 そこで最初にやったのは、自分には何が向いているのかを知るために、各業界でバイトを始めました。TBSに知り合いがいたので、大学1年の時にラジオの野球中継の仕事を手伝わせてもらったんです。スポーツもラジオも好きなジャンルだったので、ちょうど良くて。ラジオ局やテレビ局の雰囲気をそこで目の当たりにしたわけですよ。
 その後も、日本テレビや出版系のマガジンハウス、新聞社の毎日新聞などにも出入りをして、業界を渡り歩いていました。ですが結局、一番肌に合っていたのが、テレビの業界。「派手なことが好きだった」という理由もあるんですけど「何もないところからアイデアを張り巡らせて何かを作る」というのが、面白いなと思ったんですね。

#002
放送作家から
ディレクターに
興味が移る

 当時の僕が一番面白いと感じていたのは、放送作家さんでした。当然、僕よりも年上で30代以上の方ばかりでしたけど、お話をさせてもらうとウンチクが面白いんですよ。興味欲をそそられる情報を山ほど持っていて、すごく刺激的。
 その頃に活躍していた放送作家さんといえば、青島幸男さんや大橋巨泉さんといったテレビの創成期を作った世代のひとつ下の世代。具体的には、いとうせいこうさん、景山民夫さん、高田文夫さんなどのめちゃくちゃ面白い人達が大勢ひしめいていた豪華な時代でした。

 そんなある日、衝撃的な光景を見たんです。それは、大学4年でADのバイトで制作会社に行くことになった時のこと。現場で、放送作家さんからもらった台本をディレクターが「なんだよ、違うんだよな~」って、ほぼ書き直しているんです。それを見た時に「そうか、台本はディレクターも書いてるのか!」って気づいたわけです。
 放送作家は台本を書くのが仕事だけど、ディレクターだったら、編集も、取材も、ロケも、何でもやらなきゃいけない。それならディレクターになったほうが面白いな、って。 ちょうど就活の時期に「テレビでバラエティー番組を作るディレクターになる」という目標が決まりました。

#003
バラエティー人生
の始まりは
『ビートたけしの
お笑いウルトラ
クイズ』

 目標が決まったので、TBSに入社しようとしたんですけど、落ちちゃいまして……(笑)。どうしようかな、って悩んでいた時に、当時のTBSでキャスターをしていた小林繁さんが「やることないんだったらウチに来なよ」って自社の制作会社に声をかけてくれたんです。
 在学中の秋から働き始めて、出向で行った先が制作会社の『ザ・ワークス』。そこから日テレのディレクター、財津功さんの下でADとして働くことになって、最初に担当させてもらったのが『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ』でした。そこから僕のバラエティー人生がスタートします!

#004
死んだほうが
楽かもという
気持ちがよぎった
AD時代

 ですがスタート早々、業界からは逃げ出そうと思いました(笑)。その時の『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ』は、正月特番の2時間半の枠に格上げされたばかりで、やることは多いのに、ADは僕ひとりだけ。ADは人気の職業だったんですけど、辛すぎて、みんな逃げだしていました。
 この仕事の何が辛いかというと、家に帰れないこと。ロケや段取りを組んで、いざ編集に入ります、って時に編集スケジュールを見たら「朝10時開始、33時終了」って書いてあるわけですよ。33時って、翌朝の9時ですよ。それが10日間も続くのだから、それは地獄ですよ(笑)。

 交代が誰もいないから、僕はずっと現場にいるんです。ディレクターは代わる代わるやってくるので僕に気を使って「寝ていいよ」って言ってくれるんですけど、変な所がマジメで「大丈夫です」って頑張っちゃう。
 編集場所がビルの9階にあったので、窓からいつも下を眺めて「ここから飛び降りたら楽になるのになぁ……」って何度も思いました。それくらい辛かったんですよ、あの頃は……

 その時に何が自分を支えたかと言うと「絶対に成り上がってやる!」っていう意地だけ。母子家庭だったのでおふくろの面倒も見ないといけないし、今更サラリーマンにも戻れない。「ここで生きていくしかないぞ!」という、覚悟みたいなのが他の人よりも強かった気がしますね。それで歯を食い縛って『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ』を成し遂げました。

#005
秋元康氏
という
理想像に出会う

 大学4年となり、学校は3月に卒業するんですが「2月に新番組が始まるからそっちに行って」と、フジテレビの日曜昼の生放送枠から呼ばれました。
 その時の演出家が堤幸彦さんで、作家が秋元康さんでした。そこも過酷な現場なんですけど、秋元さんの会議がとにかく面白いんですよ。本当に面白い!爆笑の渦!!喋り方、切り口、人のイジリ方、あらゆるものが魅力的過ぎちゃって、僕が大学1年生のときに放送作家に感じた“業界人の面白さ”がすべて集約した人というのが、秋元さんでした。
 今でこそ改めて分かりますが、トークで人を笑わせるのはすごいことなんですよ。それができるのは、人間的な魅力がある証拠。
 「そうか、人間的な魅力がないとやっていけないんだ。じゃあ、僕も面白い人になろう」って、秋元さんを見て思いました。あの時から将来のイメージがハッキリしてきた気がしますね。

#006
先輩から受け継いだ
“エンタメ界
生き残りの秘訣”

 では、目標に向かって実際に何をやったかというと、日常の意識の変化です。これは先輩からの受け売りのアドバイスなんですけど「エンタメをやる人間の良い所は、全てが仕事に結びつくことだ」と教わりました。
 例えば、漫画を読むのも仕事になるんです。ただボケ〜っと読んでいるのはダメで、カット割りの勉強、ストーリー展開の勉強になります。他にも、音楽だったら自分が演出するときにどの曲を差し込んだら効果的なのかを考えながら聴きます。街中で変な人にあっても何かのネタになるかもしれません。だから「日常的にすぐにメモれ、ストックしろ」って!
 つまりは、エンタメの視点を持てば、全てが仕事に繋がるということ。「この業界にいれば、歩いていることすら無駄ではなくなるんだ」と思えたら、目からウロコが落ちましたね。

 これを教わったのはADになって1年目の頃でした。それ以降「自分が面白くて魅力的な人間なら、作る番組も面白くて魅力的になる」と思えるようになりました。僕には、秋元さんという良いお手本がいたおかげで、自分を磨くことへのスイッチが入ったわけです。

 そのアドバイスに従って早20年。好きだったプロレスも仕事に結びつくようになり、好きな事を仕事にできるような生活をさせてもらえるようになっています。このアドバイスは、今度はこのHPを読んでいる人へ伝わってくれれば、ありがたいですね!

to be continued
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